環境開発工業株式会社 Create the Future

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コラム

北の里から…プロジェクトK(前編)~IT革命の「風」を掴め!

取締役 佐々木 リサ

まずは昔話から。

1995年8月、今からおよそ30年前。世の中にWindows95が発売され、世界のみならず日本にもIT革命が襲来。華々しい時代が始まった…と言いたいが、この時点での仕事現場はまだまだアナログが主流であり、当社もアナログ作業がほとんど。経費や数字の管理は分厚い帳簿とにらめっこしながら、電卓片手にひたすら計算していた。計算の途中で電話がかかってきてもう一度最初からやり直す羽目になるなんて日常茶飯事・・・今思うと、とんでもなく非効率極まりない時代だった。
そんな当社に転職してきたばかりの私は、あまりにも業務効率が低い状況を打破するため、自宅にあったワープロを持込み、3.5インチのフロッピーでデータ管理をしていた。が、まだまだ手作業が多く、タイムマシーンで過去に戻らされたら、間違いなく過労死一直線の仕事量だった。すでに世に出ていた98ノートやappleコンピュータはそれなりに普及してはいたが、無類のパソコンマニアやデザイン会社の方のもの。財力のある企業などが扱う代物だった。でも私は覚えている。このWindowsが法人、個人問わず瞬く間に世の中に普及すると…。

アナログ真っ只中の当社(H8年)

そして、様々なシステム会社が事務効率を高めるソフトを開発、比較的導入しやすい価格となり、加えて委託している会計事務所などが勧めてくるなどしているうちに、あっという間に小さな企業でも導入し始めた。特に今まで苦労していた膨大な情報の保存もでき、何よりテレビや新聞、書籍で得ていた情報もパソコンを介して得ることが出来るインターネットで劇的に世の中が変わった。そしてほとんどの企業が導入した頃、当社は次の事業を模索していた。この便利なOA機器というものが次にどんなことを引き起こすか。それが私たちの産業廃棄物業にも「風」もたらすに違いない。

OA事業開始当初の工場

Windows95が発売されてから2年後の1997年11月。当社は「LINK-PRO開発事業部」と名付けた新たな部署を立ち上げた。それは使用済みとなったOA機器をリサイクル処理するという事業。ちなみに部署の名称であるLINK-PRO(リンクプロ)とは資源をLINKする(繋げる)PRO集団という造語だ。当時一般的なOA機器の処理は大型破砕機を用いて貴金属を回収する方法だったが、ご存知のとおり、OA機器というものは複合的な部品や多種多様な素材で構成されている。破砕機ではなく手で解体すれば、各素材が純度の高いものとして再び命を吹き返し、ほとんどのものがリサイクルできるようになり、そこに目を付けた。しかし、この処理事業は大型破砕機を用い、手掛けるのは金属スクラップ業の大手、同じ産業廃棄物業者とは言っても廃油専門だった当社はこの分野では完全なる新参者。同じことをしても振るわないのはわかり切っていたため「手解体」という手法に目を付けて事業化したのだ。

当社は創業時より使用済み潤滑油を回収して再生処理を施し「再生重油」として販売、根幹収入の80%以上が廃油の取扱いによるものだった(残り20%は廃棄物を埋立地や焼却の処分場へ運搬する業務)。そして売上の70%以上が大手4社の取引先で占められていたためので、1社でも取引が減少すると一気に売上が沈み、資金が立ち行かなくなる怖さがあった。まさに自転車操業、毎日資金の心配が尽きなかったことを思い出す。今となっては笑い話であるが、給料や買掛金の支払いが近づくと夢でうなされることも普通にあった。そのような状況で、新たな柱(事業)としてのOA機器をリサイクル処理する事業は、当時廃油しか処理できない設備、少量しか処理できない焼却炉しか持ち合わせていない当社でも「手」があれば出来る事業であると考えたのだった。

そして、満を持して挑んだ事業だったが…いざ事業を開始してもOA機器の入荷量が振るわない。前段に記した通り、当社は新参者、市場はすでに大手同業者の手中にあり、苦渋を味わった。しかしその後また「風」が吹いた。「3R」リデュース(Reduce)、リユース(Reuse)、リサイクル(Recycle)が叫ばれはじめ、製造側としても、リサイクルを促進しなければならない時期にきていたのだ。後に2000年に公布される「資源有効利用促進法」の始まりだ。この公布を受け、各メーカーはより一層リサイクルを促進しなければならず、リサイクル方法や処理率の改善に着手し始めた。加えて、西暦2000年になるとコンピュータが誤作動する可能性があると世の中がざわつき始めた。俗にいうY2K問題だ。資源有効利用促進法とY2Kと、この二つを切り札に、私たちは大きな決断をする。この事業を拡大するチャンスと捉え、年商の1.5倍の費用をかけてOA機器巨大工場の建設に至ったのだ。もう一度言うが年商の1.5倍である。銀行担当者が目をむいたのも道理である(ここで当時の銀行担当者(現在は当社の渡辺取締役)のプロジェクトKもあるのだが、今回は割愛、いつか書いてもらおう)。紆余曲折ありながらもなんとか着工に至った。いろんなメーカーから委託を受けても識別可能にするためのオリジナルソフト開発に始まり、業界初の自動倉庫で在庫を管理するなど画期的なシステムを構築した。全方位に対応できる、ほれぼれするような工場が竣工した。

OA第二工場竣工

しかし順風満帆とは程遠い船出だった。身の丈に合わない投資であったことに加えて、ここでも物量が振るわない。必死に営業をするも大苦戦。この工場を持て余す日々が続いた。加えて当社の売上シェアTOPの企業の生産が減少したため、廃棄物の排出量も激減、資金繰りが悪化する。そして建設1年後、大きな事件が起こった。

コラム「命日」

今考えただけでも寒気がして目が充血する。この命日である2002年8月21日、私は3か月の産休を終え復帰した初日のことだった。

続く